緊急報告
ジャカルタに到着してSahabat Aceh(以下SAに略す)の責任者Junius氏の秘書Ginoさんに迎えられ、明朝5:15にインドネシア福音同盟の二人の同伴者との連絡を取り、飛行場のホテルに落ち着いたのが、日本時間の10:30。翌日インドネシア福音同盟の総務主事的なDahlan牧師と社会奉仕委員会のFrits Triman氏と共に2時間半でメダンに向かう。飛行機の中で色々な現状を聞いた。
インドネシアのキリスト教世界には主に7つの大きなグループがある。日本のNCCに相当するPGI、カトリック、ペンテコステ、セブンスデー、バプテスト、...とインドネシア福音同盟(Persekutuan Injili Indonesia)である。PIIは82の教派・教団、団体が正会員、8つの団体が近き将来正会員となるべく準備している準会員として加わっており、かなり大きな組織である。
中央理事会があり、四人のフルタイムの働き人(総主事)を含む14人の理事がおり、全国21の地区に分けられ、それぞれが更にいくつかの地区に分けられて働きが進められている。教会、団体、宣教、神学、社会奉仕、婦人、青年、国や社会の諸課題と祈りなどの分野に分かれた委員会が設けられている。全体では30名以上の方々が全国で責任をもって奉仕されている。その目的とするところは「共に交わり、福音を伝えるために召された」というモットーに表されている。
メダンに着き、飛行機の手配をして下さったSAのEduさんに出迎えられ、シンガポールから着いた中台先生との出会いも助けていただいた。インドネシア福音同盟北スマトラ地域のコーディネーターのSampitmo牧師を含め総勢5名で、メダンから1時間余りのプロペラ飛行で北スマトラの西方にあるニアス島の質素な飛行場に着く。SAの団体の方々、ジャカルタで孤児院の働きをしている中、頻繁にニアスやアチェの働きのために出張しているJhon氏、Erwin氏を初めニアスのPII関係の方々に迎えていただく。人口80万位の島で、島全体が23のKabupaten(地域)に分かれており、Bupati(県知事)が指導している。人口の95%がクリスチャンでいくつかの村がイスラム教を奉じている。そこではSAが農業その他の機会を提供したり、モーターバイクや車の修理店(benkel)を造ったりして伝道しているという。
私たち一行は飛行場から質素な村々を通って45分くらいかけて県知事の敷地に建てられた宿泊施設に連れていっていただいた。町といっても非常に埃っぽく、1年前の地震で破壊された家々、道路、橋などが少しずつ建て直されていて、ごみためのような場所が多く見られた。中台師と私は県知事の客室に泊めていただいた。中台師の知恵で部屋の電話線からe-mailのチェックを行うことができたのは幸いであった。暑さのために水の沐浴は久しぶりにすがすがしい。ニアスの現地の料理は辛く、油も多いがやはりおいしい。県知事の家で昼食、朝食をごちそうになった。
さて、SAというクリスチャンの団体がこのニアスの地でなしてきている働き、なそうとしている働きは以下の通りである。日本のJEA関係の諸教会からの義援金はほとんどが以下の働きに使われる予定である。
- これまで40の教会堂を建て直すために財的協力をしてきた。
- ゲスト・ハウスを県知事の敷地内に建てた。
- これから二つの孤児院を建てようとしている。
- 100の漁師たち(イスラムの人々が多い)のための100艘の舟
- 貧民のため(地震の故に)の100の住居を建てる。
- 20の幼稚園を建てる。
- FMラジオ放送ができる設備を一つ建てる。
- ニアス島の住民のために生活必需品、8,000のリーボックの靴、3万のサマリタン・ビタミンAを配布する。その他、必要に応じて援助協力をする。
到着した日の晩、夕食を途中でとり、ある教会に行き、ニアス地区の福音同盟の理事たちの就任式礼拝が行われた。最初集まりが悪いようだったが、県知事夫妻、宗教省からの代表などを含め、諸教会の牧師や信徒80名から100名位の人々がその晩11:00近くまでの集会に参加した。私がイザヤ書42章から説教し、最後に中台師に祈っていただいた。久しぶりのインドネシア語での説教で緊張していたが、主が伴ってくださり、聖霊に導かれかなり自由に語ることができた。地区理事長のAyub牧師をはじめ10人以上の理事が任職した。この式の中で、日本の諸教会からの義援金をニアスでのインドネシア福音同盟の働き、SAの働きのために合計3万ドルのチェックをお渡しし、領収書をいただいた。豊かな感謝のことばが伝えられた。ニアスの島には、初め19世紀の終わり頃、ドイツの宣教師が入り、その後長老派の教会が成長し(BNKP)、現在では30以上の教派・教団が1800ほどの教会を有している。その中800の教会が地震で崩壊したという。様々な形で教会分裂が起きており、また外部からの援助の取り合いなどが起きてきている中、十分信頼できる協力団体が必要である。SAはその一つである。
その晩宿舎に戻ったときSAの責任者のひとりIshak氏が私を待っていてくださった。実はこの方には1969年に私がシンガポールのDTC神学校で学んでいた頃、8月にインドネシアに宣教旅行に遣わされ、ジャカルタの改革派の教会の青年キャンプでみ言葉の奉仕をしたときに、そのキャンプを計画したチームのひとりで、この36年以上私のことを覚えていてくださったのである。一昨年アチェの被災地を訪問して義援金をSAの指導者のJunius氏に手渡そうとしたとき、「私は小川さんをずっと前から知っているのです!」と言って、あの1969年8月のキャンプのことを思い出させてくださったのだった。Junius氏はそこでキリスト信仰をもち、将来クリスチャンのビジネスマンとして献身した人だった。話に花が咲き非常な興奮を覚えたのを思い出した。Ishak氏はその後Junius氏とこの尊い社会奉仕の働きを続けてきたのである。彼は翌朝早くから、避難民の必需品を届けに様々な地域を訪問するためにきているということだった。
私たち一行は翌朝、二つの場所を訪問した。一つは海岸沿いのイスラムの地域で仮住宅に住む70家族200数十人の部落だった。他の様々な援助団体が協力して建てた仮住居の子供たちと婦人たちが出てきて、SAの準備した塩、砂糖、お米、その他9種類の生活必需品をひと袋にして50袋を彼らに分配した。私もインドネシア語で日本の諸教会からの犠牲的なささげものがこのような形になっていることを説明し、ニアス語に訳され伝えられた。男性たちは漁師でその時間帯は海に出かけていた。
その後に訪問した地域は、県知事の職場である県庁の両側の敷地でテント生活をしている数百名の中一部の方々に同じ生活必需品21袋を分配した。県庁といっても日本の県庁とは比較できないほど質素だが、その日数百名の新任公務員の任職式があり、県知事は朝早くからその式のために出かけた。実は、数百人の募集のとき、数千人が応募したという。無職の方々がそれほど多いところである。その後、ニアスでも最古の教会、最初にこの島で伝道したドイツ人の二人の宣教師の写真がまだ保管されているところ、クリスチャンになって洗礼を受けた最初のニアス人のお墓のあるところを訪ねた。私たち一行にとって非常に興味・関心があったのは、いつ頃から伝道がはじめられ、どのようにして島中の人々がクリスチャンになっていったかということであった。ニアス島には古代からの遺跡があるようで、その文化は非常に古い。中国からの移民がかなり初期にあったようだ。ニアスの部族にはメナドの人々と同じように中国人的なところが伺えるのはそのためだろうと言われている。ニアス語に通訳してくださった婦人は正に中国人のようだった。
県知事の自宅に戻り、遅い昼食を皆でいただき、飛行場に向かった。正味一日の訪問であったが、多くのことを考えさせられた。日本の情況とはまるで異なった文化、社会現状、教会、...の中でも、主なる神はこのニアスの島で着実にご自身のみ業を続けてこられ、今回の大地震・津波の天災を通して、日本とインドネシアの福音同盟とを結びつけてくだっさったこと、その結果互いに主にある交わりを築けるようになったこと、実は、ずっと以前にすでに私たちを出会わせてくださっていたこと、財的援助が引き起こす様々な貪欲な生き方の現実、ニアス島の南部の一部では神を知らない日本や他の国々の人々が、サーフィンやダイビングで遊びこけているときに、島の多くの地では深い悲しみと苦しみの日々を送っていること、...。
メダンへの飛行機便の遅れ、メダンからジャカルタ便への乗り継ぎの不安などがあったが、メダンではシンガポールへ向かう中台師と別れを告げ、私たち一行はジャカルタに向かい、夜遅く宿泊所に着いた。翌日、SAの秘書の方と国内線の飛行機代の精算を私の友人を通して終えることができた。使命を終えてほっとしたときである。その翌日、私が33年前から11年間一緒に奉仕したAbdi牧師の牧会する教会の聖日礼拝で二回説教させていただき、その夕べジャカルタを後にし、翌朝午前中に成田に戻ることができた。今回お腹をこわすこともなく、健康を守られ、豊かな交わりが築かれる中、意義あるインドネシア・ニアス島訪問を終えることができたことを感謝している。JEAの今後のインドネシアへの援助継続の働きを期待したい。