憲法改正の動きについての呼びかけ

日本福音同盟に属する諸教団・諸教会の皆様へ

2006年6月5日
理事長 小川国光
社会委員会委員長 荒川雅夫

私たち日本福音同盟は、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイの福音書5章9節)と言われた主イエス・キリストのみことばに従い、「平和をつくる者」でありたいと心から願う福音的キリスト者から成る諸教団・諸教派の連合体です。その中には、 かつて第二次世界大戦中、 国家総動員法や改正された治安維持法の下で、 国家による不当な弾圧を受け、 基本的人権を奪われるという苦難を被った教団があります。こうした現実と経験に照らし、さらに60年余り過去にさかのぼる軍国主義日本によるアジア近隣諸国への侵略戦争の罪過を深く反省して、平和主義と基本的人権、とりわけ明確な政教分離原則に立つ信教の自由を高らかに謳う現在の日本国憲法の立場と精神を、私たちは高く評価してまいりました。それで私たちは、そのような立場と精神に立脚して国政が運営され、外交が展開されることを心から願っております。

ところで、皆様も感じておられるように、以上の立場と精神から逸脱するような憲法改正の動きが見られる、昨今の情勢であります。そして、そのような改憲の動きには、憲法の「改正」ではなく「改悪」につながりかねない危惧を覚えておられるのではないでしょうか。そうであればこそ、そのような動きに対して警戒の目を向けるだけでなく、強く反対していかなければなりません。

現日本国憲法は、立憲主義の精神を踏まえて、この憲法を尊重し擁護する義務を国民に負わせるのではなく、その義務を負うのは「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」であることを第99条に明記してあります。国民は、憲法を尊重し擁護する義務を負うのではなく、政府や議会また一人一人の公務員に「憲法を尊重し擁護しなさい」と要求する権利を有します。つまり憲法は、公権力を持つ者たちの言動を制限し、権力を持たない一般国民の主権と自由を保障するものです。これが立憲主義の真髄であることを銘記するとき、国民の権利を縮小して国民に多くの義務を負わせようとする改憲の動きには、立憲主義の真髄を葬り去ろうとする意図があることを見抜かなければなりません。それは憲法を「公権力を縛るルール」から「国民支配のための道具」へと変えることであり、それこそ現日本国憲法の基本原則の第一に挙げられる国民主権を根本から揺るがすものであります。

現日本国憲法の基本原則は三本柱のように三つあり、第二が平和主義、第三が基本的人権であります。昨年10月に公表された政権与党を代表する自民党の「新憲法草案」は、改憲の動きを一番具体的に示しているものとして注目されます。それを見ると、もしこれが国民投票にかけられたとき過半数の賛成が得られるようにとの配慮からでしょうか、前文の冒頭に「日本国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する」と、国民主権の立場をはっきり打ち出しています。立憲主義の真髄を示している第99条は、そのままにして手をつけておりません。前文の第二段の初めに「象徴天皇制は、これを維持する」と明記して、第一章の天皇条項(第1条?第8条)にもあまり手をつけておりません。

しかし、よく見てまいりますと、改憲の意図が、平和主義の看板を掲げながらもその内容を変質させ、さらに首相や閣僚の靖国神社参拝を合憲化するために政教分離原則を緩和して、日本国を再び戦争のできる国にしようとする点にあることが分かります。そのような改憲は、現日本国憲法の三大基本原則のうち、少なくとも平和主義と基本的人権の二つを大幅に後退させるものであって、まさしく日本国憲法の存立を危うくする「改悪」以外の何ものでもありません。

「新憲法草案」の前文からは、現憲法前文に「日本国民は、……政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、……恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しようと決意した」と表明されている、この重みのある大切な文章が削除されています。当然のこととして、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」とある格調高い結びも削られて、平和主義の原則が著しく後退させられているのが一目瞭然です。代わりに前文の第三段に「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し、……」と、公権力が国民に愛国心等の責務を課して国民を支配しようとする企みを隠した文章を入れています。

第9条については、見出しが「戦争の放棄」から「安全保障」へと変えられ、第1項(平和主義)はそのまま残されていますが、「前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とある第2項を削除し、新たに4項にもわたる条文「第9条の二(自衛軍)」を加えています。自衛軍は「軍」である以上、緊急事態においては武力行使も辞さないわけですから、平和主義の看板は同じでも、それは「武力行使を認めない平和主義」から「武力行使を認める平和主義」へと変質させられていることが明らかです。このような変質を、私たちが認めてよいのでしょうか。

さらに注目しなければならないのは、第20条第3項を大幅に改変して、政教分離原則を緩和しようとする動きについてです。「新憲法草案」は、第20条の第1項と第2項は現憲法のままとし、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」とある第3項だけを、「国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は干渉となるようなものを行ってはならない」と大幅に変えています。こんな読みにくい文章になっているのは、津地鎮祭違憲訴訟の最高裁大法廷判決(1979年7月13日)で合憲多数判決の決め手とされた「目的効果基準」による判決文を、そのまま援用しているからにほかなりません。これまでの判例でも、首相の靖国神社参拝は目的効果基準に照らして合憲とも違憲ともされているように、目的効果基準そのものが基準として非常にあいまいなものであります。そのようにあいまいな基準を憲法の条文に盛り込むことは、絶対に避けるべきです。首相の靖国神社参拝や、国及び公共団体の宗教行事への関与が、社会的儀礼や習俗的行為とみなされ合憲とされるならば、戦時中の神社非宗教論と同じことであり、私たちの信教の自由は著しく制限されることになります。

このような改憲の動きに対して、主権者である私たちは警鐘を鳴らし、強く反対してまいりましょう。